中原 操雪 様

川柳句文集『赤いおとし蓋』(東京都・江東区)

 

昨年9月「川柳句文集 赤いおとし蓋」を上梓された中原操雪さんにお話をうかがいました。

▲トレードマークは赤 お帽子も赤でした!

 

Q A4サイズの真っ赤な句集だが

縁あって「東京みなと番傘川柳会」に所属して27年。80歳になる記念に川柳句集をまとめたいと思っていたとき、妹が「中にはジーンとくるいい句もあるよ、句集作ってみたら?」と背中を押してくれた。そこに御社の資料が届き、書かれていた「抱きしめたい本」のコンセプトがまさに私のことを言っている! と感激し、よし、抱きしめたくなる今までにないような句集をつくろう、と柳誌「港」の制作もしている御社に電話をした。

前進を認めてくれる靴のひも

 

▲2000句にもおよぶ川柳の他、エッセイ、写真、色紙も入った『赤いおとし蓋』

 

 

Q ご出身は福井県とか

福井の片田舎で4人兄弟の2番目の長女として育った。実家は養鶏を営んでいたが、進取の志を持った両親は4人を大学まで出してくれた。女も手に職をつけた方がいいという父の考えで、料理が好きだったこともあり食物科へ。最初の就職先は智徳寮という立教大学野球部の合宿所。ちょうど長島さん、杉浦さん等とは入れ違いだったが、男子学生120名の食事はもちろんのこと、公にできないような様々なお世話をした(笑)。その後転職、勤めた先の関係者と結婚。それからが大変だった。

街道の並木に列を正される

 

Q ご苦労の数々だった?

嫁いだ先は米屋。夫は主に外回り。玄米をタンクに移し精米、糠がたまると袋に入れ、測った白米の袋を積んだり…とまさに力仕事。30㎏の袋を11段積んだことも。稼業だからがんばらなきゃと必死だった。夫の両親、住み込みの従業員、小姑の子をおぶって仕事をしたりと、店も家もてんてこまい。ある日、義父が私の食べ物の腕を生かしてお店を開いたら? と言うので米屋と間口を半分にして、総菜やお弁当を売り始めた。私が作ったものを「おいしかったよ」と言ってお金までくださる、本当にうれしかった。でも体を酷使し過ぎてもたなくなった。ある日、保健所で検査をすると即刻入院。乳がんのステージ4、右乳房全摘、50歳の時だった。名医と巡り会ったことと、母が必死で探し知人に用意してもらった薬草酒のおかげで、奇跡的に命は助かったが、夫とは離婚、60歳でバツイチに。

一途に想い一途に泣こう片乳房

電話なら君を彼方へ捨てられる

息子は独立していたので、社会人の娘と二人暮らし。食べていかなければいけないので、パレスホテルの調理として働き始めた。思うように腕が上がらず、リハビリにと始めた社交ダンスに夢中になったり、娘が幼いころ一緒に習っていた書道を再開したり、兄弟と旅行に行ったり。自分の好きなようにしたいことができる幸せ。離婚してからが私の人生だった。70歳を越えると今度は心臓機能障害で、2度3度と職場から救急車で運ばれた。この間に、白内障の手術でウイルスが内耳に入り、現在は重度難聴2級の障がい者に。でも、乳がん、離婚…と、どんな時にも傍らには川柳がいてくれた。

真実を埋めてかなしい古写真

発酵を重ねた顔がここにある

 

Q その想いが詰まった句集

皆さん、感激、感涙したと、あたたかい言葉をくださったり、品物を送ってくださったりと、ありがたくてうれしくて。お手紙やハガキも200人くらいにいただき、箱いっぱいに。できることなら、両親と昨年亡くなった兄にこの句集を見せたかった。どんなに喜んでくれたことか。離婚して20年、元夫にも送った。

誰がための情を煮込むおとし蓋

川柳と手話はこれからも絶対に必要なもの。周りの人のおかげで、本当に幸せな人生を送っている。娘と穏やかに楽しく生きていきたい。

散骨は夕日の落ちるその時に

 

★句集が校了し、あとは印刷・製本するのみとなった段階で「協力くださった皆さんにお礼を言いたい」と、ペースメーカと補聴器をつけた中原さんは一人で来社された。「会いたかったの!」と、スタッフ一人ひとりに声をかけ、手話で一緒に「ふるさと」を歌い「また絶対に来ますね」と、感激しながら新潟をあとにされた。感じたことを身体と言葉で素直に表し、周りの人を喜ばせて幸せになっている典型的な方。昨年12月、バスの中で転倒され、今、懸命なリハビリを続けている操雪さん。必ず元気に復活され、またご来社くださることを一同心より願っています。(木戸敦子)

▲人数分プレゼントくださったタオルで作ったワンちゃん

 

▲昨年9月にご来社 各人手話のポーズで、操雪さんの手作りブローチをつけて